一般社団法人臨床心理iネット

代表理事

中野孝昭

何かについての思考を、その思考と同じレベルの思考で変えることは難しい。最もシンプルな例として、“何かを考えまい”と意識することは、考えることを前提としているので、それは円環を成して終わりがありません。出来ることは、その思考から距離をとること、中心から脱すること、ないしはそのレベルから一段階上がりメタレベルから見直すことになります。しかし、これらの解決策は論理的な思考からの結論であり、実際にそこに至ることを可能にする現実的な方法が必要です。

このような意識の切り替え、ないしは自己を見る視点の転換は、第2世代の認知行動療法の課題となりました。認知のあり方、ないしは認知的な枠組みを適切な考え方に変えようとすることは、その適切さが自然に受け入れられ易い場合を除いては、自我を中心とする円環を成す思考のトラップ(考え込み)にとらわれることになるからです。

一方マインドフルネスは、そのストレス低減やうつ病の再発予防への有効性が、J.カバットジンの取り組みや 他の研究者によって実証されてきた方法ですが、その経験の蓄積から、次のようなことがわかってきています。

マインドフルネスは、言語やイメージで形作られる“自分の考え”との距離を取ることを可能とし、第3世代の認知行動療法の1つであるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)における“観察者としての自己”への気づきに繋がるということです。

さて カバットジンは「マインドフルネス ストレス低減法」で、マインドフルネスについて考えるきっかけは、道元の瞑想についての記述にあったと説明していますが、その本質は 宗教を超えた普遍的なものであり、その基本的なポイントは簡潔にまとめると次のようになります。

  • マインドフルネスとは“注意を集中すること”
    (瞑想という言葉からしばしば連想されるような特別なことではない)
  • “呼吸”が最も重要で、今の呼吸に注意を集中することが基本となる
  • “自分の存在を実感する“という意識に切り替えることを学び、より大きな存在の全体との結びつきをとらえる

また、マインドフルネスは、私に 臨済宗 中興の祖と称される白隠の「夜船閑話」を思い出させました。この著作は、一般には白隠の健康法とされる「内観の秘法」と「軟酥の法」について記されていて、白隠は京都白河山中の白幽仙人からこれらを教わったことになっています。内観の法は、丹田に“気”を集中する呼吸法そのものですが、その説明には「易経」、「荘子」(内篇 大宗師萹「真人は踵で息をする」)、「天台小止観」等からの引用もあり、仏教の範囲を超えています。なお、小止観は 道元も中国で如浄禅師から教わったとされているようです。興味深かったのは、「座禅を中止して、この養生専一に努めようと思う」という一文で、禅の修業と区別して考えられているところでした。白隠は「禅病」を患い、「心火逆上」したことで京都へ赴いたのです。

日本には、このようにマインドフルネスに相当する健康法が、古くからあったわけで、またヨーガ、合気道、太極拳等では、今も呼吸法には十分に注意が行き届いているのではないでしょうか? マインドフルネスを何か特別なことと受けとめるよりも、これまでの普段の生活の中にあったことの“新たなコンテキストにおける価値”に気づくことが第一歩で、その効果も期待できると思うのです。商業主義に巻き込まれず、その重要なポイントは呼吸と自己を見る視点の転換という普遍的なことにあると理解して、質の良い情報にアクセスすることが大切です。

鷲田清一は 著書「「待つ」ということ」に、「労働」の現在を分析した際の、惨めになるような発見について書いています。それは「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)のついた言葉が、現代の前のめりの姿勢を象徴し、<待つ>ことを拒んでいるというものです。即ち、プロジェクトにおいて、利益はプロフィット、見込みはプロスペクト、計画はプログラム、生産はプロダクション、進捗・前進はプログレス、昇進はプロモーションというように・・・。

マインドフルネスとは、<前のめりの姿勢>を拒み、“観察者としての自己”の視点からも深く自分を見つめ、生じてくる変化を<待つ>ことと思います。「プロ」に象徴される時代を生きていかなければならないからこそ、“あるがままの自分”に気づき見つめるための時間を大切にしたいものです。

道元の正法眼蔵「現成公案」に、次の有名な言葉があります。

  • 仏道をならふといふは、自己をならふなり。
  • 自己をならふといふは、自己をわするるなり。
  • 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

この「万法に証せらるる」とは<待つ>ことに他なりません。

仏教の言葉では、自己をわするることを「無観」、万法に証せらるることを「無観の観」と表現しているように思います。

また、ダライ・ラマと複数の科学者の対話を記録した「心と生命」(Gentle Bridges)という本の第8章には、「きわめて微細な心は、プラーナすなわち<風>もしくは気息と一体化したきわめて微細な肉体というものがあるため、肉体から孤立しているわけではない」という心身と呼吸の関係についての今の科学的な知識を超える発言が記されています。

このようなレベルはきわめて深遠なものと感じられますが、ともかく“とらわれない心”へ向けての最初の一歩は、意外と簡単に 誰もが踏み出すことが出来るのかも知れません。